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岩城重隆 (江戸時代) : ウィキペディア日本語版 | 岩城重隆 (江戸時代)[いわき しげたか] 岩城 重隆(いわき しげたか、1628年2月19日(寛永5年1月15日) - 1708年1月3日(宝永4年12月11日))は、出羽亀田藩第3代藩主。2代藩主岩城宣隆の長男。母は真田信繁(幸村)の娘・顕性院(お田の方、豊臣秀次の外孫)。通称は庄次郎、左京。官位は従五位下伊予守。 正室は佐竹義直(東家)の娘。継室は本多重能の娘。子は岩城景隆(長男)、娘(石川乗政正室)、娘(竹谷松平清当正室のち柳生俊方継室)ら3男4女がある。 寛永11年(1634年)3月28日将軍徳川家光に御目見する。明暦2年(1656年)7月25日、父・宣隆の隠居により家督を相続する。同年12月26日、従五位下伊予守に叙任する。 天和元年(1681年)、素行の悪さを理由に嫡男・景隆を勘当して隠居所に幽閉した。元禄9年(1696年)、家臣からの声もあって景隆を赦免することにしたが、景隆はその直前に病没した。悲しみにくれた重隆は、専住山正念寺に供養のため念仏堂を建立したという。また、晩年には孫・秀隆も廃嫡し、秋田藩士・佐竹義明の息子・格道(又八郎)を養子に迎えようとしたようである。 宝永元年(1704年)2月18日に隠居し、廃嫡した長男・景隆の長男・秀隆に家督を譲った。宝永4年(1707年)12月11日死去、80歳。新田開発や城下町の整備などを行なった名君として知られる。「月峰公」とも呼ばれる。
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